夕方。
今日は部長がいないお陰で定時で上がることができた。翼のことが気がかりだけど、昨夜眠っていない私はとにかく横になりたくて寄り道もせずに帰ってきた。「お帰り」
「ただいま。早かったのね」先に帰っていた公に声をかけられ、驚いた。
それに、すごく良い匂い。「肉じゃが作ったの?」
カバンも置かずに鍋の中をのぞき込んだ。
「ああ。サンマの塩焼きとキュウリの酢の物もあるぞ」
「すごい和食ね」ククク。と意味ありげに私を見る公。
「何?」
「どうせ、俺がいないと飯食ってないだろう?」「え、そんなこと・・・」ないよとは言えず、言葉に詰まった。
確かに、公が側にいなくなってから私の食生活は完全に乱れた。朝は菓子パンかコーヒーのみ。お昼はサラダとサンドイッチではなく、忙しくてチョコやクッキーをつまんで終わることが多い。そして、夜はスーパーで買った総菜で1人チューハイを飲むという不健康きわまりない生活。当然、仕事に出ても体調不良であまり動けない。こんな生活は良くないとは分っていても、1人だと何もする気にならないのだ。「今日はたらふく飯を食わせてやる。もうすぐ翼も帰ってくるから、一緒に食うぞ」
私は思わず公を見上げた。
今日一日うちの病院で勤務した公は、翼の噂を聞いたはずだ。だからこそ、こうして夕食の準備をしてくれている。それがいかにも公らしい。私は、ありがとうって言葉を必死に飲み込んだ。***「お疲れ」
「お疲れ様」「いただきます」チーンッ。とグラスが鳴って、3人の夕食。
「旨そうですね」
翼がサンマに箸をつける。「ああ、いつも山の中にいるからな、魚に餓えている」
真顔で言う公だけれど、これは冗談。
サンマなんてどこででも買えるから。「どんなところに住んでいるんですか」
秋。私も、小児科医として働くことに慣れた。相変わらず部長には嫌われているけれど、上手にかわせるようにもなってきた。「あれ、山形先生また痩せたんじゃありませんか?」「そ、そんなことないですよ」病棟師長の鋭い突っ込みに否定してはみたものの、さすがによく見てる。「体調管理万全にお願いしますね。もうすぐインフルの季節なんですから」「あー、はい」毎年、寒くなると小児科は目が回るほど忙しくなる。インフルエンザの患者や、肺炎、ぜんそくの患者で病棟はいっぱいになってしまうから、そんなときに小児科医が体調不良なんて言ってはいられない。「紅羽、本当に大丈夫なの?」「うん、大丈夫。ありがとう」夏美まで顔をのぞき込むから、一応笑って見せたけれど、本当はちょっとまいっている。実は、一昨日の夜公がうちにやって来た。平日なのに珍しいなあと思っていると、「辞表を出した」と何の前触れもなく告げられた。それに対して、私はただ頷くことしかできなかった。今の生活がいつまでも続くとは思っていなかった。いつかは考えなくてはいけないことだと思っていた。でも、こんなに早く・・・「後任もすぐには見つからないだろうから、春までは嘱託医としてこれまで通り勤務することになると思う」「そうなの」平日は診療所で勤務して週末はこっちに帰って来るという生活に、当面変化はないってことだ。きっと、家に泊っていくのだろう。「春からどうするの?」私は思い切って聞いてみた。「今、考えてる」「そう」それ以上は何も言えなかった。公のこれからの人生に私の意見は入らないんですか?って言えたらいいのにと思いながらも、かわい気のない私には無理だ。***夜、私たちは同じベットの上で肌を合わせた。お互いに寝付けないのは気づいていた。「朝になったら帰るの?」「いや、診療所は無理を言って休診にしてきたから
12月。毎年恒例小児科の忘年会は、病院近くのイタリアンレストランで行われた。「今年は随分おしゃれね」隣の席に座った夏美につぶやいてしまった。今まで参加した飲み会と言えば、居酒屋や中華や奮発してお寿司って言うのがほとんどだった。こんな、イタリアンレストランを貸し切っての忘年会なんて始めてだ。「部長のアイデアらしいわ。参加人数も40人を超えているし、若いスタッフも多いから、いいチョイスだと思うわよ」「へー、部長がぁ」確かにおしゃれだから、若者はうれしいよね。「山形先生、食べてますか?偏食かなんだか知らないけれど、しっかり食べて明日からも働いてくださいよ」遠くの席から大きな声で話す部長。フン、分ってます。私の食欲不振は悪化の一途をたどり、最近ではめまいを起こすようになった。自分でもまずいなって思っているのだが、忙しくて受診する暇がない。「先生どうぞ」師長が赤ワインの入ったグラスを差し出した。え?「部長が山形先生にって」思わず見つめると、小さな声で囁いた。「先生、しっかり食べて飲んでください」またまた部長の大きな声。「はい。いただきます」私は立ち上がって部長を見ると、小さく頭を下げた。クソッ。小児科部長め。私の事が気に入らないなら、かまわずに放っておいてくれればいいのに。わざわざ話しかけてくるから、時々私のことが好きなのかしらと誤解しそうになる。まあ、そうでないのは間違いないけれどね。「紅羽、顔が怖い」グラスのワインを持ったままの私に夏美の突っ込み。分っていても笑って受け流せない私は、静かにグラスを置いた。部長からのワインだから飲まないのではない。私は本当に体調が悪いのだ。そのうちに、あちこちのテーブルで酔っ払いが大量発生しだした。***「もー、部長。ダメですよ」
「うっ、気持ち悪い」今日も朝から吐き気に襲われる。ペットボトルのミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出し一口含んだが、やはり吐き気は治まらない。ここのところずーっとこの調子で、夏美にも「いい加減に受診しなさい」と毎日言われている。マズイなあ。できれば休みたくないのに、この状態では仕事にならない。「おーい、紅羽。大丈夫か?」階段の下から翼の声がした途端、私は座り込んでしまった。ダダダッと階段を上がる足音。トントン。「入るぞ」返事を待つことなく入ってきた翼が、私を見下ろす。「気持ち悪い」小学校の遠足でバスに酔ったときより酷くて、2日酔いの10倍は辛い。「そんな所にいたら良くならないだろう」冷蔵庫の前に座り込んだ私を、翼が手を差し出して抱えようとする。抵抗する気力もない私は、膝とエチケット袋を抱えたまま翼に寄りかかった。「今日の勤務は無理だな」「・・・うん」この状態では仕事にならないと私にだって分っている。でも・・・先日出た辞令で、私は異動は決まっている。すでに公表になっていて、1か月後には隣町の市立病院へ移らなくてはいけない。異動先も救急外来を持つ総合病院だから、左遷ってわけではない。早いか遅いかの違いで、夏美だって翼だって異動はあるし、いつまでも同じ現場にいられる医者なんてごく一部でしかない。それは分ってはいるけれど・・・***「離島に飛ばされたわけでも、山の中に送り込まれたわけでもないだろう。そんなに落ち込むな」「分ってるわよっ」翼に言われなくたって、転勤は勤務医の宿命なのだから諦めるしかないと頭では理解してる。「仕方ないから、今日は休め」動けない私が仕事に行けるはずもないが、やはり休みたくはない。「今休んだら、駄々をこねているみたいだわ」「言いたい奴には言わせておけ」「・・・うん」
翌朝、渋滞を避けて早めに家を出た。 この体で長いドライブをすることに不安はあったけれど、行かなくてはいけない気がして車を走らせた。 以前来たときは綺麗な緑に覆われていたのに、今は枯れ葉が舞っている。 なんだか寂しいわねと少し感傷的な気分になりながら、私は診療所への道を進んだ。 「こんにちは」まだ診察前なのは分っていて、玄関から声をかける。「はーい」出てきた看護師の、どなたですかと怪しむような視線。「私、山形と言います。公、いえ、宮城先生はいらっしゃいますか?」 「先生ー」看護師に呼ばれ、公が奧の診察室から出てきた。「え、お前」やっぱり、驚かれた。 何も言わずにやって来たのだから、当然だろう。「お知り合いですか?」 「同僚です」看護師に聞かれても、私はそう答えるしかなかった。***公が診察の間は、院長室で休ませてもらった。 環境が変わって気が紛れたのか、今日は吐き気がしない。 来客用のソファーにもたれかかりながら、時々聞こえる公の声に耳を澄ませた。「どうかした?」昼前になり戻ってきた公が、なぜか不機嫌な私に渋い顔をする。「別に。どうもしないけど・・・」 「話があるんだろ」こんな平日に前触れもなく訪れれば、何かあったと思うに決まっている。「実は・・・赤ちゃんができたの」私は、核心のみをはっきりと伝えた。「そうか」驚く様子も見せず、公は私をそっと抱きしめた。「私、迷ってるの」正直、生んで育てる自信なんてない。「俺は、どんな結論も受け入れる」男ってずるい。 決められないからここにいるのに・・・「妊娠も出産も私ばっかり。私だって、医師としてのキャリアを積みたいのに」公の前で歯止めがきかなくなって、甘えが出てしまった。
送っていく車の中で、紅羽は眠ってしまった。妊娠するとホルモンのバランスが変わって眠たくなることもあるらしいし、つわりも体調の変化も人それぞれ。症状も、一概にこうだと言えるものはない。まあ、命を1つはぐくもうと言うんだからそれなりに体の負担は避けられないのだろう。それにしても、どうしたものだか。こいつが母親になるなんて、想像もできない。いつも真っ直ぐで、正直で、それでいて不器用で、心配で目を離すことができなかった。最初は妹を見るように見ていたのに、いつの間にか手を出していた。近付けば近づくほど彼女の側を離れられなくなって、お互いを恋人と認識するようになった。二人の関係を隠したつもりはない。一緒に手をつなぎ、堂々と街を歩きたかった。でも、余計なことを口にしない紅羽にあわせているうちに、秘密の交際のようになってしまった。それが・・・子供ができるなんて。「うぅんー」助手席から聞こえてくる紅羽の声に幸せを感じる。こんな時間をずっと過ごせたら、いいだろうなあ。「かわいい顔して、強情な奴だ」***俺の両親はごく普通の会社員と専業主婦だった。小さなアパートに4人暮らしで、俺の上に姉がいる。体の弱い母は働きに出ることもできず、決して裕福ではなかった。父は寡黙で真面目な仕事人間。母は、元々金持ちの娘だったらしい。駆け落ちして一緒になったと大きくなってから聞かされた。そんな母も、俺が13歳、姉貴が15歳の時に病気で死んでしまった。母の訃報を聞いて駆けつけた祖父は「お前が娘を殺したんだ」と父に罵声を浴びせた。葬儀の後、俺と姉貴は母の実家に連れて行かれたが、父は止めなかった。一生懸命頑張りすぎた父は、母が亡くなる前から心を壊してしまっていて、病院を出たり入ったりの暮らしだった。そんな父に子供を育てられるはずもなく、どうしようもない選択だったのだろう。3年後、父は病院で亡くなった。金持ちの家とは言えすで
ガチャ。すっかり寝てしまった紅羽を抱えて玄関を開けると、福井翼が顔を出した。「おかえりなさい」「ただいま」俺の家でもないのに、自然と口を出た。「寝たんですか?」「ああ」「先生も大変ですね」「まあな」多感な思春期を他人の家ですごしたせいで、俺は外面のいい人間になってしまった。いつ笑顔でニコニコしているから年寄りには好かれるし、愛想が良ければ仕事もやりやすい。そんな宮城公を自分で作り上げた。しかし、こいつに関わる時でだけ本性が出てしまうんだ。よほど疲れていたのか、部屋まで運びベットに寝かせても紅羽は起きなかった。その後キッチンに入り、冷蔵庫を空けてみると、中身は水と、ビールと、卵が数個だけ。「相変わらずの食生活か」とてもじゃないが、妊婦の、いや女性の家とは思えない。***「荷物、置きますね」玄関に置いたままだった荷物を、翼が運んできた。「ああ、すまないな。ビール飲むか?」「ええ、いただきます」ダイニングに座り、つまみもなしでビールを空けた。「寝ましたか?」「ああ。人の気も知らずに夢の中だ」「食べれてなかったし、眠れてなかったし、最近辛そうでしたから」ふーん。こいつは俺よりも紅羽のことを知ってる訳か。「悪いが、気にかけてやってくれ」色々と思う所はあるが、やはり頼れるのはこいつだけだ。「わかりました。で、どうする気ですか?」翼の探るような視線。「それは、あいつが決めることだ」人の言うことを素直に聞く女じゃない。「先生はどうしたいんですか?」それでも翼は食い下がる。「俺は・・・ポケットにしまっておきたい」「はあ?」やはり、唖然とされた。しかし、これが本心だ。できることならこのまま連れて帰りたいが、できない
私は病気療養の名目で2週間の休みをもらい、このままでいけば休み明けから次の勤務先へ異動になる予定だ。妊娠の事は秘密の為、周りから見れば異動が嫌で駄駄をこねている様に見えるけれど、今は仕方ない。そんな事にかまっていられないから、ありがたく静養と異動の準備をさせてもらおうと思う。とはいえ、勤務先は隣町のため住居の引っ越しは不要で、これまで通り翼との同居は継続する。長期休暇のお陰で、つわりの為に弱った体をゆっくり休ませることができた。時間を気にすることもなくゴロゴロとベットで過ごし、病院にも行き、母子手帳ももらった。そして、自分自身と向き合った。少しずつではあるけれど、あれだけ悩んでいた妊娠も、出産も、自然と受け入れられるようになってきた。産婦人科は、自宅から少し離れた小さなクリニック。知り合いに会わないことを第一条件に選んだ。「独身ですね。生みますか?」「はい」40過ぎの女医さんに聞かれ、はっきりと答えられた。普段小さな子供達を患者として診ている私にとって、生まれてきてくれる命は奇跡でしかない。その命を絶つなんて・・・考えられない。もちろん、そうなると現実的な問題は出てくるが、幸い私の周りには子育てしてる女医さんも多い。私にだってできなくはないと、思えてきた。***日がたつにつれ、つわりにも慣れてきた。そんな時、私は体調のいい日を見計らって久しぶりに実家へ帰省した。私の生まれ育ったのは、隣の県。今の家からは電車で2時間の距離で、のどかな田園風景が広がる田舎町だ。うーん、懐かしい。ここに帰るのは1年ぶりかな。そんなに遠いわけではないけれど、つい足が遠のいていた。「お帰り、紅羽」「ただいま」母が駅まで出迎えに来てくれた。「父さんは?」中学教師の母さんは平日仕事のはずだから、今日は父さんが迎えに来てくれると思っていた。「お父さん、急に葬儀が入ったのよ」
「カンパーイ」 盛り上がる店内。ここは最近評判のレストラン。 なかなか予約が取れないって噂なのに、誰かがコネを使ったのね。「おーい、ビールおかわり」 「こっちはハイボール」 「すいませーん、注文お願いしまーす」色んな所から声が上がる「はーい、お待ちください」店員さんも忙しそう。 そんな中、相変わらず大騒ぎしている若者達は一気飲みや訳のわからないゲームまで。 パッと見は、大学生にしか見えないけれど・・・「これでも医者なのよねー」 「あんたもね」すぐ隣から呆れた声が聞こえてきたから、私も次々とグラスを空けている隣の美女、夏美に突っ込みを入れた。「そういう紅羽(くれは)も、顔が真っ赤よ」自分は全く顔に出さないからって、夏美が笑ってる。「夏美とは違うの。一体どれだけ強いの」私だってお酒が弱い方ではないけれど、夏美が強すぎるのだ。 勤務後、夕方7時から始まった飲み会はすでに2時間以上がたち、みんなそれなりに酔っ払ってきている。 当然、私も夏美もかなり飲んでいるのだが・・・。***私、山形紅羽(やまがたくれは)は27歳の小児科医。 この春やっと研修医の肩書きがとれて、医師として歩き出したばかり。 今日は同じ大学の同期で、付属病院に就職したメンバーとの飲み会。 夏美は大学の同期で、私と同じ小児科医。 本当はお金持ち開業医の娘なのに、チョー現実主義者。 今だって、「もったいないから、ほら飲みなさい」と、良い所のお嬢さんとは思えない発言を繰り返している。「ほんと、黙っていれば美人なのにね」 「紅羽、やかましい」あら、聞こえてた。「こら紅羽、飲み過ぎだぞ」今度は、どこからともなく現れた翼が注意する。「はいはい、分ってます」福井翼(ふくいつばさ)は大学からの同期。 同じ病院の救命医として勤務している。 見た目は雑誌から飛び出てきたような、THE王子様。 顔が良くて、頭が良く、それで性格の良い奴ならモテないはずがない訳で、当然のように学生時代からかわいそうなくらい目立っていた。「飲み過ぎるなよ。介抱なんてごめんだからな」 耳元に口を寄せ、翼が小声でささやく。ッたく、不必要なまでにいい男。 ここまでくると、嫌みよね。「分っているわよ。自分の足でちゃんと帰ります。ご心配な
私は病気療養の名目で2週間の休みをもらい、このままでいけば休み明けから次の勤務先へ異動になる予定だ。妊娠の事は秘密の為、周りから見れば異動が嫌で駄駄をこねている様に見えるけれど、今は仕方ない。そんな事にかまっていられないから、ありがたく静養と異動の準備をさせてもらおうと思う。とはいえ、勤務先は隣町のため住居の引っ越しは不要で、これまで通り翼との同居は継続する。長期休暇のお陰で、つわりの為に弱った体をゆっくり休ませることができた。時間を気にすることもなくゴロゴロとベットで過ごし、病院にも行き、母子手帳ももらった。そして、自分自身と向き合った。少しずつではあるけれど、あれだけ悩んでいた妊娠も、出産も、自然と受け入れられるようになってきた。産婦人科は、自宅から少し離れた小さなクリニック。知り合いに会わないことを第一条件に選んだ。「独身ですね。生みますか?」「はい」40過ぎの女医さんに聞かれ、はっきりと答えられた。普段小さな子供達を患者として診ている私にとって、生まれてきてくれる命は奇跡でしかない。その命を絶つなんて・・・考えられない。もちろん、そうなると現実的な問題は出てくるが、幸い私の周りには子育てしてる女医さんも多い。私にだってできなくはないと、思えてきた。***日がたつにつれ、つわりにも慣れてきた。そんな時、私は体調のいい日を見計らって久しぶりに実家へ帰省した。私の生まれ育ったのは、隣の県。今の家からは電車で2時間の距離で、のどかな田園風景が広がる田舎町だ。うーん、懐かしい。ここに帰るのは1年ぶりかな。そんなに遠いわけではないけれど、つい足が遠のいていた。「お帰り、紅羽」「ただいま」母が駅まで出迎えに来てくれた。「父さんは?」中学教師の母さんは平日仕事のはずだから、今日は父さんが迎えに来てくれると思っていた。「お父さん、急に葬儀が入ったのよ」
ガチャ。すっかり寝てしまった紅羽を抱えて玄関を開けると、福井翼が顔を出した。「おかえりなさい」「ただいま」俺の家でもないのに、自然と口を出た。「寝たんですか?」「ああ」「先生も大変ですね」「まあな」多感な思春期を他人の家ですごしたせいで、俺は外面のいい人間になってしまった。いつ笑顔でニコニコしているから年寄りには好かれるし、愛想が良ければ仕事もやりやすい。そんな宮城公を自分で作り上げた。しかし、こいつに関わる時でだけ本性が出てしまうんだ。よほど疲れていたのか、部屋まで運びベットに寝かせても紅羽は起きなかった。その後キッチンに入り、冷蔵庫を空けてみると、中身は水と、ビールと、卵が数個だけ。「相変わらずの食生活か」とてもじゃないが、妊婦の、いや女性の家とは思えない。***「荷物、置きますね」玄関に置いたままだった荷物を、翼が運んできた。「ああ、すまないな。ビール飲むか?」「ええ、いただきます」ダイニングに座り、つまみもなしでビールを空けた。「寝ましたか?」「ああ。人の気も知らずに夢の中だ」「食べれてなかったし、眠れてなかったし、最近辛そうでしたから」ふーん。こいつは俺よりも紅羽のことを知ってる訳か。「悪いが、気にかけてやってくれ」色々と思う所はあるが、やはり頼れるのはこいつだけだ。「わかりました。で、どうする気ですか?」翼の探るような視線。「それは、あいつが決めることだ」人の言うことを素直に聞く女じゃない。「先生はどうしたいんですか?」それでも翼は食い下がる。「俺は・・・ポケットにしまっておきたい」「はあ?」やはり、唖然とされた。しかし、これが本心だ。できることならこのまま連れて帰りたいが、できない
送っていく車の中で、紅羽は眠ってしまった。妊娠するとホルモンのバランスが変わって眠たくなることもあるらしいし、つわりも体調の変化も人それぞれ。症状も、一概にこうだと言えるものはない。まあ、命を1つはぐくもうと言うんだからそれなりに体の負担は避けられないのだろう。それにしても、どうしたものだか。こいつが母親になるなんて、想像もできない。いつも真っ直ぐで、正直で、それでいて不器用で、心配で目を離すことができなかった。最初は妹を見るように見ていたのに、いつの間にか手を出していた。近付けば近づくほど彼女の側を離れられなくなって、お互いを恋人と認識するようになった。二人の関係を隠したつもりはない。一緒に手をつなぎ、堂々と街を歩きたかった。でも、余計なことを口にしない紅羽にあわせているうちに、秘密の交際のようになってしまった。それが・・・子供ができるなんて。「うぅんー」助手席から聞こえてくる紅羽の声に幸せを感じる。こんな時間をずっと過ごせたら、いいだろうなあ。「かわいい顔して、強情な奴だ」***俺の両親はごく普通の会社員と専業主婦だった。小さなアパートに4人暮らしで、俺の上に姉がいる。体の弱い母は働きに出ることもできず、決して裕福ではなかった。父は寡黙で真面目な仕事人間。母は、元々金持ちの娘だったらしい。駆け落ちして一緒になったと大きくなってから聞かされた。そんな母も、俺が13歳、姉貴が15歳の時に病気で死んでしまった。母の訃報を聞いて駆けつけた祖父は「お前が娘を殺したんだ」と父に罵声を浴びせた。葬儀の後、俺と姉貴は母の実家に連れて行かれたが、父は止めなかった。一生懸命頑張りすぎた父は、母が亡くなる前から心を壊してしまっていて、病院を出たり入ったりの暮らしだった。そんな父に子供を育てられるはずもなく、どうしようもない選択だったのだろう。3年後、父は病院で亡くなった。金持ちの家とは言えすで
翌朝、渋滞を避けて早めに家を出た。 この体で長いドライブをすることに不安はあったけれど、行かなくてはいけない気がして車を走らせた。 以前来たときは綺麗な緑に覆われていたのに、今は枯れ葉が舞っている。 なんだか寂しいわねと少し感傷的な気分になりながら、私は診療所への道を進んだ。 「こんにちは」まだ診察前なのは分っていて、玄関から声をかける。「はーい」出てきた看護師の、どなたですかと怪しむような視線。「私、山形と言います。公、いえ、宮城先生はいらっしゃいますか?」 「先生ー」看護師に呼ばれ、公が奧の診察室から出てきた。「え、お前」やっぱり、驚かれた。 何も言わずにやって来たのだから、当然だろう。「お知り合いですか?」 「同僚です」看護師に聞かれても、私はそう答えるしかなかった。***公が診察の間は、院長室で休ませてもらった。 環境が変わって気が紛れたのか、今日は吐き気がしない。 来客用のソファーにもたれかかりながら、時々聞こえる公の声に耳を澄ませた。「どうかした?」昼前になり戻ってきた公が、なぜか不機嫌な私に渋い顔をする。「別に。どうもしないけど・・・」 「話があるんだろ」こんな平日に前触れもなく訪れれば、何かあったと思うに決まっている。「実は・・・赤ちゃんができたの」私は、核心のみをはっきりと伝えた。「そうか」驚く様子も見せず、公は私をそっと抱きしめた。「私、迷ってるの」正直、生んで育てる自信なんてない。「俺は、どんな結論も受け入れる」男ってずるい。 決められないからここにいるのに・・・「妊娠も出産も私ばっかり。私だって、医師としてのキャリアを積みたいのに」公の前で歯止めがきかなくなって、甘えが出てしまった。
「うっ、気持ち悪い」今日も朝から吐き気に襲われる。ペットボトルのミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出し一口含んだが、やはり吐き気は治まらない。ここのところずーっとこの調子で、夏美にも「いい加減に受診しなさい」と毎日言われている。マズイなあ。できれば休みたくないのに、この状態では仕事にならない。「おーい、紅羽。大丈夫か?」階段の下から翼の声がした途端、私は座り込んでしまった。ダダダッと階段を上がる足音。トントン。「入るぞ」返事を待つことなく入ってきた翼が、私を見下ろす。「気持ち悪い」小学校の遠足でバスに酔ったときより酷くて、2日酔いの10倍は辛い。「そんな所にいたら良くならないだろう」冷蔵庫の前に座り込んだ私を、翼が手を差し出して抱えようとする。抵抗する気力もない私は、膝とエチケット袋を抱えたまま翼に寄りかかった。「今日の勤務は無理だな」「・・・うん」この状態では仕事にならないと私にだって分っている。でも・・・先日出た辞令で、私は異動は決まっている。すでに公表になっていて、1か月後には隣町の市立病院へ移らなくてはいけない。異動先も救急外来を持つ総合病院だから、左遷ってわけではない。早いか遅いかの違いで、夏美だって翼だって異動はあるし、いつまでも同じ現場にいられる医者なんてごく一部でしかない。それは分ってはいるけれど・・・***「離島に飛ばされたわけでも、山の中に送り込まれたわけでもないだろう。そんなに落ち込むな」「分ってるわよっ」翼に言われなくたって、転勤は勤務医の宿命なのだから諦めるしかないと頭では理解してる。「仕方ないから、今日は休め」動けない私が仕事に行けるはずもないが、やはり休みたくはない。「今休んだら、駄々をこねているみたいだわ」「言いたい奴には言わせておけ」「・・・うん」
12月。毎年恒例小児科の忘年会は、病院近くのイタリアンレストランで行われた。「今年は随分おしゃれね」隣の席に座った夏美につぶやいてしまった。今まで参加した飲み会と言えば、居酒屋や中華や奮発してお寿司って言うのがほとんどだった。こんな、イタリアンレストランを貸し切っての忘年会なんて始めてだ。「部長のアイデアらしいわ。参加人数も40人を超えているし、若いスタッフも多いから、いいチョイスだと思うわよ」「へー、部長がぁ」確かにおしゃれだから、若者はうれしいよね。「山形先生、食べてますか?偏食かなんだか知らないけれど、しっかり食べて明日からも働いてくださいよ」遠くの席から大きな声で話す部長。フン、分ってます。私の食欲不振は悪化の一途をたどり、最近ではめまいを起こすようになった。自分でもまずいなって思っているのだが、忙しくて受診する暇がない。「先生どうぞ」師長が赤ワインの入ったグラスを差し出した。え?「部長が山形先生にって」思わず見つめると、小さな声で囁いた。「先生、しっかり食べて飲んでください」またまた部長の大きな声。「はい。いただきます」私は立ち上がって部長を見ると、小さく頭を下げた。クソッ。小児科部長め。私の事が気に入らないなら、かまわずに放っておいてくれればいいのに。わざわざ話しかけてくるから、時々私のことが好きなのかしらと誤解しそうになる。まあ、そうでないのは間違いないけれどね。「紅羽、顔が怖い」グラスのワインを持ったままの私に夏美の突っ込み。分っていても笑って受け流せない私は、静かにグラスを置いた。部長からのワインだから飲まないのではない。私は本当に体調が悪いのだ。そのうちに、あちこちのテーブルで酔っ払いが大量発生しだした。***「もー、部長。ダメですよ」
秋。私も、小児科医として働くことに慣れた。相変わらず部長には嫌われているけれど、上手にかわせるようにもなってきた。「あれ、山形先生また痩せたんじゃありませんか?」「そ、そんなことないですよ」病棟師長の鋭い突っ込みに否定してはみたものの、さすがによく見てる。「体調管理万全にお願いしますね。もうすぐインフルの季節なんですから」「あー、はい」毎年、寒くなると小児科は目が回るほど忙しくなる。インフルエンザの患者や、肺炎、ぜんそくの患者で病棟はいっぱいになってしまうから、そんなときに小児科医が体調不良なんて言ってはいられない。「紅羽、本当に大丈夫なの?」「うん、大丈夫。ありがとう」夏美まで顔をのぞき込むから、一応笑って見せたけれど、本当はちょっとまいっている。実は、一昨日の夜公がうちにやって来た。平日なのに珍しいなあと思っていると、「辞表を出した」と何の前触れもなく告げられた。それに対して、私はただ頷くことしかできなかった。今の生活がいつまでも続くとは思っていなかった。いつかは考えなくてはいけないことだと思っていた。でも、こんなに早く・・・「後任もすぐには見つからないだろうから、春までは嘱託医としてこれまで通り勤務することになると思う」「そうなの」平日は診療所で勤務して週末はこっちに帰って来るという生活に、当面変化はないってことだ。きっと、家に泊っていくのだろう。「春からどうするの?」私は思い切って聞いてみた。「今、考えてる」「そう」それ以上は何も言えなかった。公のこれからの人生に私の意見は入らないんですか?って言えたらいいのにと思いながらも、かわい気のない私には無理だ。***夜、私たちは同じベットの上で肌を合わせた。お互いに寝付けないのは気づいていた。「朝になったら帰るの?」「いや、診療所は無理を言って休診にしてきたから
夕方。今日は部長がいないお陰で定時で上がることができた。翼のことが気がかりだけど、昨夜眠っていない私はとにかく横になりたくて寄り道もせずに帰ってきた。「お帰り」「ただいま。早かったのね」先に帰っていた公に声をかけられ、驚いた。それに、すごく良い匂い。「肉じゃが作ったの?」カバンも置かずに鍋の中をのぞき込んだ。「ああ。サンマの塩焼きとキュウリの酢の物もあるぞ」「すごい和食ね」ククク。と意味ありげに私を見る公。「何?」「どうせ、俺がいないと飯食ってないだろう?」「え、そんなこと・・・」ないよとは言えず、言葉に詰まった。確かに、公が側にいなくなってから私の食生活は完全に乱れた。朝は菓子パンかコーヒーのみ。お昼はサラダとサンドイッチではなく、忙しくてチョコやクッキーをつまんで終わることが多い。そして、夜はスーパーで買った総菜で1人チューハイを飲むという不健康きわまりない生活。当然、仕事に出ても体調不良であまり動けない。こんな生活は良くないとは分っていても、1人だと何もする気にならないのだ。「今日はたらふく飯を食わせてやる。もうすぐ翼も帰ってくるから、一緒に食うぞ」私は思わず公を見上げた。今日一日うちの病院で勤務した公は、翼の噂を聞いたはずだ。だからこそ、こうして夕食の準備をしてくれている。それがいかにも公らしい。私は、ありがとうって言葉を必死に飲み込んだ。***「お疲れ」「お疲れ様」「いただきます」チーンッ。とグラスが鳴って、3人の夕食。「旨そうですね」翼がサンマに箸をつける。「ああ、いつも山の中にいるからな、魚に餓えている」真顔で言う公だけれど、これは冗談。サンマなんてどこででも買えるから。「どんなところに住んでいるんですか」
「うー、気持ち悪い」胃がムカムカするのを我慢しながら、結局一睡もすることなく私は出勤した。同じだけ飲んだはずの翼は全くいつもと変わらない顔をしていて、つきあってあげた私としてはなんだか悔しい。「山形先生、顔が怖ーい」病棟ですれ違った子供にまで言われてしまうなんて、まずいな。「2日酔い?部長が出張で良かったわね」偶然出会った夏美の嫌み。完全に部長に目をつけられてしまった私は、小児科の中では問題児扱いだ。本当に、今日部長がいたら大変だっただろうな。それだけでも幸運と思わなければいけないだろう。「でも、翼は紅羽よりももっとヤバそうよ」「えっ?」夏美の言葉に、顔を上げた。正直、今日は休むかもって思っていたのに、翼は出勤していった。今の状況は翼にとって針のむしろのはずで、きっとやり難いだろうなと想像できる。何とか早急に騒ぎが収まってくれれば良いけれど。***その日の夕方、私はたまたま救急外来に呼ばれた。時刻は午後6時。ちょうど開業医の受付が終わる時間とあって、かなりの患者で混雑している。「山形先生、お願いします」救急外来に入るとすぐに看護師から声がかかり、熱で元気のない赤ちゃんの診察をした。「お母さん、ミルクは飲めますか?」「いえ、あまり」「そうですか、水分は?」「飲めています」「じゃあ、無理せずに少しずつ水分を取らせてあげてください。今夜分の薬と座薬を出しますから明日外来に来ていただけますか?」「はい」何か変わったことがあれば救急を受診するようにと念を押し、私は赤ちゃんの元を離れた。あれ?その時、周囲の様子がおかしいことに気が付いた。みんなが遠巻きに翼を見ている。「なあ、検査急いでよ」「待ってください。今、準備します」不機嫌丸出しの翼に、若い放射線技師は慌てている。「だから、急いでっ」